イタリアより

滞在日記

カターニア・ベッリーニ公園案内②貴族の庭園から市民公園へ

市民公園とは対照的に、
バロック都市カターニアの権威と記憶を刻む大聖堂

2025.12.21撮影

1853年、カターニア市はこの「迷路」の跡地を購入しました。計画を遂行するに当たり、時の市政長官の「Non una città che fosse pur di terz’ordine manca nel continente di una pubblica villa, ove i cittadini trovano l’opportunità di respirare l’aria ossigenata delle piante e il convegno sicuro di tutta quella gente che vuol divertirs:ヨーロッパの都市なら、たとえ小さな地方都市であっても、市民が植物の空気を吸い、安全に集える公共の庭園を持つのが当然だ」との推薦の言葉に後押しはされたものの、市民公園を造るに当たってはなかなか着工には至りませんでした。時は、19世紀半ば、カターニア市議会にて…

妄想ストーリー②

市議会
市民が憩う公園にしたいのは山々なんだが……問題は予算だ。お金が足りない。

技術部会
土地を買うだけでは終わりませんよ。造成、階段、動線、植栽……

美観局
それに見た目も大事だろ。インスタ映えする、いやデザイン性が求められる。

★実務者
つまり、設計も施工も、順番すら決められない…か

エレファント宮殿/カターニア市庁舎

と、こんなやり取りがあったかも知れません。

この時期、イタリア全土に起こった「リソルジメント」は、単に「イタリア統一運動」ではありませんでした。特権から公共へ、王侯貴族の象徴から市民の象徴へ、閉ざされた空間から開かれた空間へという、都市の思想そのものの転換でした。

19世紀当時も
「市民公園」の構想について
この市庁舎で
侃々諤々(かんかんがくがく)の論争が~

そもそも、カターニアは1693年、地震後に再建された教会・宮殿・貴族の邸宅が主役となり、空間は「見せる」・「支配を示す」ためのものでした。バロック都市の論理では、「市民が自由に憩う公園」は、必須ではなかったのです。

が、時代は変わる。バロックの色濃い町に、市民公園?…どこか違和感を抱いたのですが、その理由こそが、そのまま歴史に刻まれていたのです。

-続く-