イタリアより

滞在日記

ベッリーニ庭園案内・最後の余白/絞め殺しの木①

イチジクの巨木
学名: Ficus macrophylla Pers.

2025.12.21撮影

ベッリーニ庭園は、二つの丘をつなぐように、大きな長方形の平地を中心に構成されています。その平地の北側エリアには、沢山の南国の植物や木々が植栽されていますが、中でもひときわ異様な存在感を放つ巨木があります。

学名を「Ficus macrophylla Pers.(フィカス・マクロフィラ・ペルス)」、通称イチジクの木と呼ばれる木は、幹の周囲14メートル、推定樹高35メートルにも及ぶ常緑樹で、樹齢はおよそ150年だそうです。1860〜1880年代頃のカターニア 市議会にて…。

♦妄想ストーリー

行政担当
「我々の新しい市民公園には、他都市にも負けないシンボルツリーが必要だ」

設計担当
「エキゾチックな風情で、カターニアの気候にも合う大木が映えるでしょうな」

行政担当
「パレルモ にも壮大なフィカスがある。同じ木を植えてはどうか」

設計担当
「おお、それは良き良き。新しい都市の象徴になりますな」

老庭師、ぽつり―
「……まさか、イチジクの木か…ヤバっ」
「そ、それは……百年後、大変なことになりますぞ」

行政担当
「何を言う。大きな木陰が遊歩道を包み込み、市民の憩いの場になるではないか」

設計担当
「南方都市カターニアの未来にふさわしい景観ですな~Che bella idea!

とかなんとか~。

ホテルが貸し出してくれた傘を置いてみました

イチジクの木…デカっ

-続く-

ベッリーニ庭園案内・最後の余白/石の音楽

 

2025.12.23撮影

改めて

ベッリーニ公園の「大階段」

グレゴリオ聖歌譜かオルガンか

この公園の名前の由来となった音楽家、ヴィンチェンツォ・ベッリーニ

カターニアに生まれた彼は、代々音楽に携わる一家の出身でした。幼い頃から、音楽家であった祖父のオルガンに親しみ、父や祖父から音楽教育を受けて、その才能を早くから開花させていきます。

ベッリーニが親しんだオルガン
ベッリーニ博物館サイトより

やがてミラノ、さらにヨーロッパへと名声を広げましたが、長く患っていた腸疾患が悪化し、わずか33歳で亡くなりました。こうした経緯もあって、市民公園として整備されたこの元貴族の庭園に、彼の名が冠されることになります。

そして──。

エトネア通り側から入ると、正面に現れる白黒模様の「大階段」に圧倒されながらも、「この階段は、ベッリーニへのオマージュなのではないか」と思いました。もちろん、観光案内にそんな説明はないし、私の想像に過ぎません。けれど、この階段が造られた時代背景を考えると、どうしても単なる装飾には見えない。

グレゴリオ聖歌譜
「文化遺産」サイトより

グレゴリオ聖歌の楽譜か、それとも、幼いベッリーニが弾いたという祖父のオルガン、あるいは鍵盤のイメージなのか。どちらにしても、このデザインには「音楽の意匠」を感じるし、当庭園の名を持つ作曲家への、敬意のように思えてならないのです。

グレゴリオ聖歌の
ネウマ譜(楽譜記号)にしか見えなくなってくる…

実際、誰がこの大胆な白黒文様を考えたのだろう。造園家なのか、それとも無名の装飾家だったのか。「大階段」を設計した建築家、そのあたりの解説をちゃんと残しておいてくれたら良かったのに。あー、モヤモヤする…。

そうして、もう一つ驚いたことがありました。

わたしは当初、この公園の名前は、リソルジメントの時代背景の中で、「市民の出自を持つ、カターニア生まれの著名な音楽家」として、ベッリーニの名が選ばれたのだろう、と考えていました。

ビスカリ侯爵

ところが、なんとベッリーニの祖父は、かつてビスカリ侯爵家に仕えていた音楽家でした。つまり侯爵家は、ベッリーニの祖父を支援していた存在でもあったのです。元貴族の庭園の名に、その貴族家と深い縁があった、音楽家の名が冠される――。ちょっと因縁めいて…。

うーん、またまた妄想ストーリーが展開しそうです。

天国からビスカリ侯爵が、ため息交じりに~

「ビスカリ公園ではダメなのだな…まぁベッリーニなら仕方ないっか」と。

-続く-



カターニア・ベッリーニ庭園案内⑧歩き方

2025.12.21撮影

改めて…

エトネア通り入口を入ったら
目の前に現れる「大階段」


ベッリーニ庭園を散策するにあたって、特に決まった順路はありません。それぞれが思いのまま歩を進めていけばよい庭園です。ただ、初めて訪れる方のために、あえて一つの歩き方を挙げるとすれば以下…。

♦「エトネア通り側」から庭園に入ると、「大階段」を上がった先に「日時計」や植栽で表された「カレンダー」があり、その上には「ガゼボ」が建っています。このあたりの起伏のある地形には、かつて貴族の庭園として造られた時代の面影が感じられます。

エトネア通り方向から「偉人の並木道へ」

2025.12.21撮影

♦そこから奥へ進むと、後に土地を買収して拡張された区域に入り、「偉人通り」と呼ばれる並木道が続きます。

♦さらに進行方向の右側へ少しそれると、庭園の中には珍しく、運動場のように広い四角形の空間が現れます。これがサン・サルヴァトーレの古代ベネディクト会庭園の一部に相当していたエリアです。庭園らしい装飾はほとんどなく、かつては「馬車の停車」に使われた一角でもあって、どこか実用的な印象を受けました。現在では、この場所で各種のコンサートやイベントが開催されています。

運動場のような公園

左に見えるこんもりとした
木々の上が「救世主の丘」

♦その広場から見える「小さな坂道」を上がっていくと、足元の道には白い小石と黒い溶岩石で動物や人物の姿が描かれたモザイクが現れます。獅子や、魚、天秤、さらには人物の姿もあり、どこか星座を思わせるような図柄にも見えます。

ただ、この小道は庭園の他の部分とは少し趣が異なり、比較的新しい時代の整備で作られた園路なのだと思います。

「救世主の丘」に続く小さな坂道に
施されたモノクロのモザイク画

2025.12.21撮影

♦その坂道を上がると、「救世主の丘」と呼ばれる小高い場所にたどり着きます。ここから東側のサンテウプリ通りの方向へいくと、木々に覆われた静かな散策路が続き、子供たちが遊ぶ遊具が置かれたエリアもあり、さらにローマ広場方面(レジーナ・マルゲリータ通り)へ足を向けると、「いちじくの巨木」の姿を見ることができます。

イチジクの巨木

「Ficus Magnolioide Monumentale di Villa Bellini」

 

♦また、「ガゼボ」を中心に南側へ回ると、チマローザ通り沿いの道へと出て、再び「偉人通り」に到着します。

・・・・・・・・

こうして歩いてみると、この庭園は、最初から一つの設計で完成された場所ではなく、長い時間の中で少しずつ広がり、手を加えられながら形づくられてきた空間であることがよく分かります。

レジーナ・マルゲリータ通りの三つの門

ちなみに、ローマ広場に面したレジーナ・マルゲリータ通りの出入り場所には、三つの門が二か所あります。本来の訪問者である人が入る門馬車が通る門、そして荷役を担ったであろう馬が行き来する門現地でこの三つの門を見れば、成程と当時の庭園の使われ方が垣間見えて、なかなか面白かったです。

-続く-

カターニア・ベッリーニ公園案内⑦未完の庭園

❛その日❜が植栽で表されている

2025年12月21日撮影

それでも21世紀に入ると、かつて荒れた姿が見られたベッリーニ公園は、幾度かの改修と再整備を経て、再び市民の公園としての顔を取り戻していきました。

私が訪ねた12月は、花もなく、あちこちに枯草が積もってはいたものの、町の中で目にしたようなゴミの散乱はなく、庭園は静かに呼吸しているかのようでした。きっと、それなりに管理され、手をかけられているのでしょう。

トマッセツリ通り側の高台

2025.12.21撮影

 時が来れば、季節ごとの花が咲き、大小様々なイベントも園内で開催されています。夜にはライトアップされ、イルミネーションが灯ることもあって、遅い時間帯でなければ、夜間でもメインエリアの散策は楽しめそうです。

ローマ広場側入口
(Via Regina Margherita側)

2025.12.21撮影

長い歴史の中で、ベッリーニ庭園は、壊されることもなく、駐車場にされることもないまま、市民の公園として生き続けてきました。まるでそれは――「理想の迷宮庭園」として完成されるよりも、未完のまま、市民の庭であり続けることを、この庭園自身が選んできたかのようです。

どのような姿に変わろうとも、例え動物たちがいなくなろうとも、荒れた時期があったとしても、それでも、この公園が失われなかったのは、カターニアの人々が真に求めた場所だったからにほかなりません。

抗いようのない時間を積み重ねながらもベッリーニ庭園は、人々から守られ続けてきたのでしょう。

余談

園内を歩いていると、どこかちぐはぐな印象を受けるのも、又事実でした。例えば「救世主の丘」と呼ばれる一角では、ゆるやかに誘(いざなう)うような坂道を上りながら、そこに何かが待っているような期待を抱かされましたが、辿り着いた先に広がっていたのは、何もない小さな荒れ地、どこか取り残されたような空間でした。

白と黒のモザイクが施された

「救世主の丘」の坂道

この坂はとても綺麗に整えられていて
近年に造られたもののよう
とても中国パビリオンが建っていた時代の
「救世主の丘」へと続く道とは思えない

2025.12.21撮影

また、庭園全体にも、時代ごとに継ぎ足されてきた名残なのでしょう、どこか無理やり繋がれているような印象を受けるのも否めませんでした。いわば、歴史の継ぎ足しによる独特の構成…散策中に抱いた違和感の、これが正体なのだと思いますが、こうして歴史を知れば、さもありなんと頷かされもする思いでした。

-続く-

カターニア・ベッリーニ公園案内⑥衰退する公園

19世紀末、貴族の庭園から市民の公園へと
移り変わる時代に建てられたガゼボ。
当時流行の装飾様式だったのでしょう

2025.12.21撮影

妄想ストーリー⑥

カターニア市議会

★管理部門1.
花壇が維持できない。人手が足りないし、費用も捻出できない。

★管理部門2.
こっちもだ。手入れされないから、植物はまるで森へ帰っていくようだ。
★動物管理者
鳥たちも消えたよ。白鳥や猿や、そして象も…もう戻らないだろう。

★行政担当
こんなに予算が削られてしまっては、優先順位さえも決められない。。。etc

20世紀に入ると、計上されていた予算が次第に削られ、庭園の維持管理が難しくなっていきます。手入れされない花壇は荒れ果て、周辺に植えられた植物も四方八方に伸び放題。動物たちもやがて消えて行きました。

ストレリチア(ゴクラクチョウ花)
南アフリカからやって来たこの植物が、
遠く離れたシチリアの地で見事に適応している

ベッリーニ庭園にて
2025.12.21撮影

そもそも、元の貴族の庭園を買い取り、市民が憩える公園として生まれ変わらせるはずでした。当時の衆知を集め、ビスカリ侯爵の迷路の庭園と買収したサン・サルヴァトーレの土地とを統合し、階段や小さな橋、並木道などを上手く利用して、現在の庭園の形を造り上げました。が、時代が変わっても、理想は維持し続けなければ形を失う…

ニンフの泉

2025.12.21撮影

折しも、イタリアではそれまでの高度成長が終焉を迎えます。当時の通貨だったリラは暴落し、不況でありながら同時にインフレに喘いだ時代…そんな不安定だった歴史的背景が、ここ地方都市にも及んでいたのでしょう。

そうして21世紀を迎えても、状況が劇的に変わったわけではありませんでした。2001年、イタリア経済は統計上はプラス成長を記録していましたが、若者の失業率は依然として高く、地方都市の疲弊はそう簡単にぬぐえなかったです。

庭園の「救世主の丘」に立っていた

中国からの贈り物である木製のパビリオン

Live UniCTより

そんな時代の空気の中で、十分な手入れもされないまま放置されていたベッリーニ庭園の北側「救世主の丘」に建っていた中国パビリオンは、2001年の夏の夜、火災によって一晩であとかたもなく消失してしまいました。

庭園北側、エトネア通りとトマセッリ通りを見下ろす
小高い丘の頂に、その中国館は建っていた
Live UniCTより当時の写真

2025年12月21日、この丘に上がってみましたが
何もない、小さな荒れ地でした

このパビリオンは、中国の皇帝からの贈り物で、市民の図書館の役割も果たしていましたが、火事の原因は分からずじまい。放火の可能性が指摘されてはいますが、この事件は、単なる建物の消失というより、時代の疲労がにじみ出た出来事だったのかもしれません。庭園の中には、こうして静かに消えていったものもあるのです。

-続く-

カターニア・ベッリーニ公園案内⑤ベッリーニ庭園には象が居た…囲われた象「トニー」

1965年に寄贈された象の「トニー」
名前は男の子名だけれど
実は女の子だった…

Live UniCTより

1965年、当時ヨーロッパで流行していたサーカス団の一行がカターニアにもやって来ました。サーカスの興行宣伝として、象のパレードを許可してもらう条件で、一頭の象がカターニア市に寄贈されたのです。象は、サーカス団の名称からトニーと呼ばれていましたが、実はサーカスを引退する雌の象でした。年齢は80歳。有名なハンニバル軍のアルプス越えも再現した団の花形スターでした。

メネリクとトニーの紹介
左:メネリク 右:トニー

≪トニー≫10年前ハンニバルの進路をたどり
アルプスの山越えをした!

「Mascalucia DOC」より

当初の約束通り、広場から大通りを進むパレードの途中、トニーはパニックに陥って暴れ出してしまいます。周辺に停まっていた数台の車を鼻や体でなぎ倒し、破壊したと記録されているので、皮肉にも、それはそれはサーカス団の大きな「宣伝」となったことでしょう。

象「トニー」は、本日よりカターニアの市民になった
13時45分、ベッリーニ庭園前で公式の引き渡し
新しい飼育員と共に

「Mascalucia DOC」より

トニーは、鎮静剤で眠らされ、ベッリーニ庭園へと運搬されましたが、さすがに大きな図体では、檻の中には入れられはせず、資料によると、森のある広いエリアの囲いの中で係の人から大切に飼育されたようでした。

しかし、トニーは庭園から脱走を試みます。当時を知る人によると、「トマセッリ通りをトニーが歩いていた、しばらくアスファルトに足跡が残っていた…:E una volta l' elefantessa provo' anche a scappare e percorse un pezzetto di strada, mi pare via Tomaselli, restarono per un po' di tempo le orme del suo passaggio sull'asfalto ,ve lo ricordate」…。

その為なのでしょう、脱走防止のため、囲いの周囲には溝が掘られ、上記の写真にも見られるように、足元には杭まで打たれることになってしまいます。

旧アルカラ広場(現ボルセッリーノ広場)
この辺りにサーカスのテントが立っていた

逃げ出したトニーが向かった先は、「アルカラ広場」に設営されたサーカス団のテント――現役の頃、ともに働いた二頭の象をはじめ、仲間たちのいる場所だったのかもしれません。

象はその巨体に似合わず、とても繊細で、群れで生きる動物です。囲われた狭い場所で、たった一頭で暮らす日々。訪れる人々には、懸命に芸を見せていたそうですが、日夜人の目にさらされ、日常的に子供たちからはパンや菓子が与えられていたというから、十分な食料と水があり、例え保護された場所であったとしても、トニーにとっては決して安住の住処(すみか)ではなかったのでしょう。ベッリーニ庭園に来て、わずか2年後、トニーは亡くなってしまいました。

亡くなったトニーを運び出す様子
郊外で火葬され、
その煙は町中に立ち上ったと伝えられている

「Mascalucia DOC」より

トニーの寄贈の背景には、サーカス側の「引退した動物の余生を町のシンボルとして過ごさせて欲しい」という意図と、市民の「町のマスコットである本物の象を間近で見たい」という熱い要望が合致したものでしたが、果たして、正しい選択だったのか。

かつてベッリーニ庭園に居たメネリクトニーは、人々から愛されはしたけれど、守られはしなかった……今だから、言えることかもしれないのだけれど…。

-続く-

余談

実はトニーの前に、ローマ市から「レモ」という象が贈られる計画がありました。しかしレモはシチリアへ向かう途上で死んでしまい、ベッリーニ庭園 には、用意された囲いだけが残りました。その場所に入ることになったのがトニーでした。

つまりカターニア市は偶然トニーを受け入れたのではなく、トニー以前から象を迎える計画――いわば「象プロジェクト」なるものが存在していたのでしょう。

カターニアに到着することがなかったレモについての記録は詳しく残っていませんが、都市の象徴として庭園に象を迎えようとした結果、少なくとも3頭の象が命を落とすことになりました。

ベッリーニ庭園のどこかで、象のモチーフや装飾を見つけた時は、単なるカターニアのシンボルというだけでなく、この3頭の象たちにも思いを馳せてみて下さい。

カターニア・ベッリーニ公園案内④ベッリーニ庭園には象が居た…名前は「メネリク」

カターニアのシンボルである「象」
Fontana dell`Elefante(像の噴水)にて

2019年に撮影

ことの起こりは、1889年のことでした。当時イタリアは、植民地獲得を目指しアフリカのエチオピアへ進出し、皇帝メネリク2世と条約を締結します。世界史にも登場する「ウッチャリ条約」です。

妄想ストリー④

★エチオピア皇帝:
この度は、私をお認め頂き有難し。ついては両国の友好の為、象を贈りたい。

★イタリア国王:
お~それは何とも恐縮です。国民はさぞかし喜ぶことでしょう。Grazie!

★国王の臣下:
王様…象は、一体どうやって飼うのでしょう。

★イタリア国王
うむ……それは後で考えよう。
そうだっ!象をマスコットにしているカターニアなら喜ぶに違いない。

「リオトル」と呼ばれ
「象」はカターニアの人たちのマスコット

こんな経緯で、一頭の小象がカターニアにやって来ました。元々「象」は、町の人たちのマスコット。「メネリク」と名付けられた小象は、一躍町の人気者になったに違いありません。が、彼らは余りにも象を知らなさ過ぎました。

ベッリーニ庭園に象が居た…
Menelik nella foto di Francesco Marenzi.
(フランチェスコ・マレンツィ撮影のメネリク
)

「.IT CANIA」より

メネリクは、飼育用の檻が完成するまでベッリーニ庭園の囲いに入れられていましたが、その後、用意された檻の環境は、象にとって劣悪なものでした。後世に分かったことですが、湿気の多い暗い場所で、健康にはそぐわない草が与えられていたのです。

それでなくても、母親や兄弟姉妹たちから離され、遠く離れた異国の地に連れて来られた幼い象は、どんなに強いストレスにさらされていたことか。寒さと飢えの中、やがて半年も経たず、死んでしまいました。それから70年余りの時を経て、彼らは再び同じ轍を踏むのです。

-続く-